かんたん暗記
ザク切り日本史
ザク切りだけど流れはがっつり♪
100の重要年号と出来事で日本史を一気に駆け抜けます。
日本列島の社会が形づくられるまで
縄文時代には、土器を使い、狩り・漁・採集で得た食料を利用しながら、集落を営む暮らしが広がりました。地域ごとに多様な文化が育ち、人々は協力して生活していました。
弥生時代になると、大陸から水田稲作や金属器が伝わります。米を生産して蓄える社会では、集落どうしの結びつきが強まる一方、富や力の差が生まれ、小さな国々がまとまっていきました。
古墳時代には、各地の有力者が大きな古墳を築き、近畿地方を中心とするヤマト政権が勢力を広げました。朝鮮半島や中国との交流を通して文字・技術・制度が伝わり、のちの国家形成につながります。
飛鳥時代―仏教の受容と政治制度
年、百済の聖明王からが伝わり、大陸の学問・美術・建築などを受け入れる動きも進みました。年にはが推古天皇の摂政となり、天皇を中心とする政治を整えようとしました。
年には、才能や功績に応じて役人の位を示すが定められ、年には役人の心構えを示すが制定されました。
年、小野妹子らがとして派遣され、日本は隋との外交を進めながら大陸の制度や文化を学びました。
律令国家の成立
年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒したをきっかけに、豪族中心の政治を改める改革が進みました。
年、日本は唐・新羅の連合軍とのに敗れ、国防と国家体制の整備を急ぎました。年にはが制定され、天皇を中心に全国を治める仕組みが整いました。
年、元明天皇は唐の都にならったへ都を移しました。年には神話や天皇の系譜をまとめた『』、年には国家の正式な歴史書である『』が完成しました。
奈良時代の土地制度と仏教
国が人々に貸し与える口分田が人口増加などで不足したため、朝廷は開墾を促しました。年、新しく開墾した土地の永久私有を認めるが制定され、耕地が増える一方、貴族や寺社の私有地も広がりました。
天然痘の大流行などで社会不安が広がる中、聖武天皇は仏教の力で国を安定させようとし、年にの開眼供養が行われました。
平安京への遷都と新しい仏教
桓武天皇は政治の立て直しを図り、年に都をへ移し、年にはへ遷都しました。
唐で新しい仏教を学んだは年に唐から帰国して天台宗を、は年に唐から帰国して真言宗を開きました。山岳修行や密教を重んじる二つの宗派は、朝廷や貴族の支持を受けました。
年、菅原道真の意見でが停止されました。大陸との交流は続きましたが、取り入れた文化をもとに国風文化が発達しました。
貴族政治から武士の時代へ
年、関東でが始まり、地方で武力を持つ勢力の成長が表面化しました。
一方、中央では藤原氏が天皇との外戚関係を利用して権力を強め、年にが摂政となると、摂関政治は最盛期を迎えました。
末法思想と浄土信仰が広がる中、年に藤原頼通がを建てました。
政治面では、摂関政治の力が弱まる中、年に白河上皇がを始め、上皇が天皇に代わって政治を主導しました。
年のと年のでは武士が大きな役割を果たし、政治への進出を強めました。年にはが太政大臣となり、平氏政権が栄えました。
鎌倉幕府と武家政治
年、平氏はで滅亡し、源氏の勢力が全国に広がりました。年、が征夷大将軍となり、鎌倉幕府の武家政治が確立しました。将軍と主従関係を結んだ武士は御家人と呼ばれ、領地を保障される代わりに軍役などを負いました。
年ので幕府は朝廷側に勝利し、西国にも支配を広げました。年には武士社会の慣習に基づくが制定されました。
年の、年ので元軍を退けましたが、恩賞となる土地が少なく、幕府と御家人の関係は揺らぎました。年のは御家人の借金救済を図りましたが、十分な立て直しには至りませんでした。
室町幕府の成立と南北朝
年にが滅亡し、年には後醍醐天皇がを始めました。しかし武士の不満が高まり、政治は長く続きませんでした。
足利尊氏が京都に新しい天皇を立て、後醍醐天皇が吉野へ移ったため、京都の北朝と吉野の南朝が並び立ちました。年、が征夷大将軍となって室町幕府を開きました。両朝の対立は続きましたが、年にが実現しました。
年、足利義満がの造営を始め、武家文化と公家文化が融合した北山文化が栄えました。
民衆の成長と戦国時代
年、借金の帳消しを求めるが起こりました。年に始まったで幕府の力は弱まり、各地で戦国大名が台頭しました。
年、足利義政がの造営を始め、簡素さを重んじる東山文化が育ちました。
幕府の力が弱まる一方、地域では自治の動きが広がりました。年のでは国人と農民が自治を行い、年のでは一向宗の門徒が大きな力を持ちました。
年にが伝わり、戦い方が変化しました。年にはがキリスト教を伝え、南蛮貿易とともに新しい文化が広がりました。
織田信長と豊臣秀吉
年、織田信長はで今川義元を破り、勢力を伸ばしました。年には信長によってが滅びました。
年のでは鉄砲を活用して武田軍を破りましたが、年、信長はで明智光秀に襲われました。
信長の後を継いだは、年に関白となり、年にはを行って農民から武器を取り上げ、兵農分離を進めました。年にはしました。
秀吉は年の、年ので朝鮮に出兵しましたが、大きな負担を残しました。
江戸幕府の成立と対外政策
年ので徳川家康が勝利し、年にを開きました。年ので豊臣氏が滅び、幕府の支配が安定しました。
年、が制度化され、大名は江戸と領地を往復して幕府の統制を受けました。年のは、重い年貢やキリスト教弾圧への不満を背景に起こりました。
年、幕府はの来航を禁じ、海外との交流を幕府の管理下に置く体制を固めました。
将軍・老中による幕政の立て直し
年、5代将軍徳川綱吉はを出し、行き過ぎた面もありましたが、人や動物の生命を重んじる政策を進めました。
幕府財政の立て直しが課題となる中、8代将軍徳川吉宗は年にを始め、倹約、新田開発、年貢収入の確保などを進めました。
商業が発達すると、年に老中となったは、商人の力を利用して幕府の収入を増やそうとしました。
田沼政治への反発や飢饉後の社会不安を背景に、松平定信は年にを始め、倹約と農村の立て直しを重視しました。
蘭学の発達と外国船の接近
年、杉田玄白・前野良沢がオランダ語の医学書を翻訳した『』を完成させ、西洋の知識を学ぶ蘭学が広がりました。
一方、北方ではロシアが日本との通商を求めるようになり、年に使節が根室へ来航しました。幕府にとって、外国への対応と北方の守りが新たな課題となりました。
外国船の接近が続くと、幕府は年にを出し、日本へ近づく外国船を武力で退ける方針を示しました。
社会不安と天保の改革
天保の飢饉で人々が苦しみ、幕府や役人への不満が高まる中、年に元大坂町奉行所与力のが起こりました。
こうした社会不安と幕府財政の悪化に対応するため、水野忠邦は年にを始め、倹約や統制の強化を進めました。
開国から江戸幕府の終わりへ
年、アメリカ使節が浦賀に来航して開国を求めました。年ので港が開かれ、鎖国体制は終わりに向かいました。
年にが結ばれましたが、関税自主権がなく領事裁判権を認める不平等な内容でした。反対が強まる中、年に井伊直弼がで暗殺されました。
年、生麦事件への報復として起こったは、西洋の軍事力を知る契機となり、薩摩藩は近代化を進めました。
幕府に対抗する有力藩の連携が進み、年にが成立すると、倒幕の動きが強まりました。
年、徳川慶喜はを行いました。年、新政府はを示し、広く意見を取り入れて国を築く方針を掲げました。
明治国家の形成
年、が公布され、土地の所有者が現金で税を納める制度になりました。安定した税収を得る一方、農民には重い負担となる場合もありました。
年のを最後に、士族による大規模な反乱は収まりました。年にはが発布され、天皇を中心とする立憲国家の枠組みが整いました。
年にが始まり、日本は東アジアで勢力を強めました。
日清戦争後の賠償金などをもとに建設されたは、年に操業を始め、重工業の発展を支えました。
年、日本はロシアへの対抗を意識してを結び、年にが始まりました。年には条約改正が完成し、を回復しました。
大正期の国際社会と民主化
年、日本は連合国側でに参戦し、アジア太平洋で権益を広げました。戦争景気で産業が発展する一方、物価上昇も起こりました。
年、思想運動を取り締まる治安維持法が公布される一方、男子普通選挙を実現するも公布され、民主化と統制強化が同時に進みました。
戦争への道と敗戦
年、で犬養毅首相が殺害され、政党政治は大きく後退しました。年、日本はを通告し、国際社会で孤立を深めました。
年の後、軍部の政治的影響力が強まりました。年にが始まり、戦争は長期化しました。
年、ヨーロッパでが始まり、年、日本はアメリカなどとのに突入しました。戦況が悪化し、年にを受諾して敗戦を迎えました。
戦後日本と現代
年、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を柱とするが公布されました。年にが始まると、特需が日本経済の復興を後押ししました。
年、日本はと日米安全保障条約に調印し、主権回復と日米同盟の枠組みを定めました。年にはに加盟し、国際社会へ復帰しました。
高度経済成長の中、年に初のが開かれ、交通網などの整備も進みました。
戦後、日本本土から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた地域では、日本への復帰を求める運動が続きました。その結果、年にが実現しました。
年、が発生し、巨大地震と津波、原子力発電所事故が社会に大きな被害と課題を残しました。
